「どなたですか?」母を忘れていた行方不明の息子。記憶を呼び戻したあんパンの味

目次

第1章 毎日ひとつのあんパン

「今日も、あんパンをひとつください」

夕方になると、春江は決まって町のパン屋に立ち寄った。

買うのは、粒あんの入った昔ながらのあんパン。

三年前まで、それは息子の亮太のために買っていたものだった。

亮太は子どもの頃から、この店のあんパンが大好きだった。

三年前。

春江の住む町から電車で一時間ほど離れた工業地域で、大きな爆発事故が起きた。

亮太は仕事で近くを訪れており、その日を最後に連絡が途絶えた。

警察も消防も捜索した。

病院にも何度問い合わせたか分からない。

しかし、多数の負傷者が出た混乱の中で、亮太の行方は分からないままだった。

事故の日の朝。

玄関を出る亮太が言った。

「母さん、帰りにあんパン買っといてよ」

それが、春江が聞いた息子の最後の言葉だった。

だから春江は、毎日あんパンを買った。

いつ帰ってきてもいいように。

翌日には、新しいものを買った。

三年間、一日も欠かさずに。

第2章 「亮太……!」

ある日のこと。

古い友人が春江の家を訪ねてきた。

「春江さん……変なこと言うけど、この前、亮太君によく似た人を見たの」

隣県の、小さな町だった。

春江は翌朝、その町へ向かった。

友人が男を見かけたという工場の前で待った。

夕方。

作業着姿の男が門から出てきた。

その瞬間、春江の胸が止まりそうになった。

少し猫背になる歩き方。

左の眉に残る、小さな傷。

「亮太……!」

男が振り返った。

間違いなかった。

春江は駆け寄った。

「亮太! お母さんよ!」

けれど男は、戸惑った顔で一歩下がった。

「……すみません」

そして、申し訳なさそうに言った。

「どなたですか?」

第3章 生きていた。でも――

調べると、男は爆発事故のあと、現場から離れた病院へ身元不明者として搬送されていたことが分かった。

頭を強く打ち、長く意識を失っていた。

目覚めたときには、自分の名前も家族も思い出せなかった。

財布も携帯電話も事故で失われていた。

退院後は支援を受け、この町で働き始めたという。

春江にとって、それは喜びだけではない再会だった。

息子は生きている。

目の前にいる。

なのに、その息子の中に、自分はいない。

それでも春江は何度も会いに行った。

昔の写真を見せた。

運動会の話をした。

家族で海へ行った話もした。

亮太は真剣に話を聞いた。

しかし、何も思い出さなかった。

「すみません」

ある日、亮太が言った。

「あなたが来るたびに、思い出さなきゃって思うんです。でも……何も出てこないんです」

春江は黙っていた。

「あなたが悲しそうな顔をすると、僕まで苦しくなる」

そして亮太は、目を伏せた。

「もしかしたら、本当に人違いなんじゃないですか?」

その言葉は、春江の胸に深く刺さった。

第4章 もう、会わない

春江はその日、家に帰ってから長い間、息子の古い写真を眺めていた。

次の日。

最後にもう一度だけ、亮太に会った。

「ごめんなさいね」

春江は笑った。

「あなたを苦しませるために会いに来たんじゃないのに」

亮太は何も言わなかった。

「もう、来ないから」

春江は深く頭を下げた。

帰りの電車では泣かなかった。

家に着いても泣かなかった。

でも翌日の夕方。

いつものパン屋の前で、足が止まった。

店から焼きたてのパンの香りが漂っていた。

春江は目を閉じた。

そのとき、事故の日の朝がよみがえった。

――母さん、帰りにあんパン買っといてよ。

春江は、ゆっくり目を開けた。

そして店に入った。

「店長さん……お願いがあるんです」

第5章 最後の賭け

数日後。

亮太が働く工場の近くに、小さなパンの屋台が出た。

いつものパン屋の店主が、事情を聞いて協力してくれたのだ。

昼休み。

工場から出てきた亮太が足を止めた。

「……なんだろう」

風に乗って、甘い香りが流れてくる。

亮太は眉をひそめた。

「この匂い……」

気づけば、屋台の前まで歩いていた。

並んだパンの中で、一つだけ妙に気になるものがあった。

丸い、あんパン。

亮太はそれを買った。

一口かじった。

その瞬間。

頭の奥で、何かが弾けた。

小さな自分。

パン屋の前。

隣にいる女性。

『熱いから、ゆっくり食べなさい』

亮太の手が止まった。

もう一口。

今度は高校受験の日。

『緊張したら、これ食べなさい』

鞄にあんパンを入れてくれる母。

さらに一口。

玄関。

仕事へ向かう自分。

振り返りながら言っている。

『母さん、帰りにあんパン買っといてよ』

亮太の手から、パンが落ちた。

第6章 「母さん」

少し離れた場所に、春江が立っていた。

亮太は春江の顔を見る。

今まで何度見ても知らない人だったはずの顔。

なのに今は、胸の奥が痛いほど懐かしかった。

唇が震えた。

「……母さん?」

春江の顔がくしゃっと崩れた。

亮太は歩き出した。

やがて駆け出した。

三年間、止まっていた時間を埋めるように、母を抱きしめた。

春江も息子の背中に腕を回した。

「おかえり」

何度も夢の中で言った言葉。

ようやく、本当に言えた。

第7章 今日は二つ

数日後。

春江と亮太は、いつものパン屋を訪れた。

店主は二人の顔を見ると、何も聞かずに笑った。

「今日は何にします?」

春江も笑った。

「いつもの、お願いします」

そして少しだけ間を置いた。

「今日は、あんパンを二つ」

亮太が横から言った。

「母さん、二つで足りる?」

「三年待ったんだから、今日は一口もあげないよ」

「それ、俺のために買ってたんじゃなかったの?」

「今日からは自分で買いなさい」

店主が声を上げて笑った。

亮太も笑った。

春江も笑った。

三年間、帰ってこない息子のために買っていた一つのあんパン。

その日からようやく、

帰ってきた息子と一緒に食べる、二つのあんパンになった。

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「1分で毎日にひとつプラス」をテーマに、エンタメ・恋愛・占い・美容などを発信しています。
毎日の「ちょっと気になる」を、短くわかりやすく届けることを大切にしています。

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